第18回 第3回校舎増築 前編

校舎概観
 「JISDの宝No.14(ランカー校舎)」で書いたように、1983年8月に中学部がランカー校舎に移転したこの年の4月には、720名収容の本校舎に何と848名もの児童・生徒が入って来たので(小671, 中177)取り敢えず1学期は小4の3学級(115名)はドン・ボスコシューレの隣接校舎を借りて急場を凌ぎました。
 2学期から独立した中学部はその後、88年4月末の269名まで毎年増加し続けましたが、小学生は不思議なことに90年の664名まで7年にも亘り665名前後の横這い。処が91年4月末に一気に712名となり収容能力の限界に近付きました。1980年代後半、所謂バブル経済に乗った日本企業は1990年に何が起きたか(後刻バブル崩壊と名付けられた現象に)気付かず、「行け行けドンドン」で駐在員を送り続け、本校では1992年4月には一時的に丁度1000名の大台に達したのでした。(統計は何れも5月1日付)。
 この傾向を見る限り91年5月と12月の2度に亘る法人臨時会員総会で第3回増築が決定されたのも止むを得なかったと言えます。「増築」といっても既存の平屋の離れ校舎1316m2の改修に増築部3515m2ですから「殆ど新築」に近い形で、地上3階、地下(ガレージ)1階建て480名(12教室)収容校舎です。

 基本設計は新校舎建築(1972/73), 第1回増築(74/75), 第2回増築(78/79) を手がけたキルヒホフ設計事務所が既存の校舎の外観や全体のコンセプトに合うように設計し、工事の施工は竹中工務店と清水建設が共同企業体(コンソーシャム)を作り92年6月初めに着工、約10ヵ月後の93年4月中旬に完成して新学期からの使用に間に合わせました。落成式は1993年5月25日(火)午前11時から小ホールで実施。
 これで本館(旧校舎)の13教室と新館の12教室の計25教室で1000名収容可(40名x25教室)となり、将来の小学部全学年4学級編成に対処できるようにしました。事実1992年4月開始のこの年は中3が2学級以外全学年3学級編成で,小2、小4などは135名前後で4学級も視野に入っていました。
 建物は初期の駐車場地に1978/79年に建てられた第2次増築の平屋5教室に、2階と3階を上積みし、更に敷地東側の学校菜園の方へも拡張して12の一般教室を確保、地上階にはグランド直結の職員室の他、校長室、事務室関係、保健室、2会議室、休憩室等の管理部門、3階には家庭科室、387m2の小ホール、ハウスマイスター住居、床は全て電気暖房、一方地下ガレージは従来の645m2から凡そ1400m2に拡大。また身障者用のトイレや地下から3階ホールまでのエレベーターも設置。 設計に当ってはキルヒホフ建築士は交通量が比較的多いニーダーカッセラー・キルヒヴェークと、この通りを挟んでの学校前が住宅地である事から、通りに面した建物の地上階の張り出し量がそのまま上部に上乗せされると周囲に「威圧感」を与える事を配慮し、上階に行くに従って四方の幅を小さくしています。(図面参照)。

 費用については1991年に政府に提出した所謂シドニー方式の国庫補助申請が却下され、一方生徒数急増への対処が焦眉の急となっていたため(国庫補助認可の決定を何年も待っている訳には行かず)、企業からの寄付金と積み立ててあった自己資金と不足分を銀行借入で賄う事にして工事を敢行。当初の予定では総額1000万マルク(当時8億1千万円)の総工費に対し、寄付金450万マルク、自己資金400万DM,銀行借入を150万DMと見積っていましたが最終的には950万DM以内の支出で済んだ事、また日本経済のリセッションに入る前の募金の呼びかけと、東京の海外子女教育振興財団による(日独双方での)寄付金取り纏めのご支援のお陰もあり(財団への入金は約200万マルク)、当初予定よりも50万DMも上回る500万マルクの寄付金が得られた事で、金利の高い銀行借入をしないで済みました。その代わり自己資金を全て放出したため2年連続で授業料を値上げせざるを得ませんでした。
 尚この第3回増築/新築工事が完成した93年4月には、前年1992年4月に1000名いた生徒数は100名減の897名に、94年には805名、創立25周年の95年5月には736名、96年には705名と、まるで釣瓶(つるべ)落しのように生徒数が右肩下がりに減っていったのは大変皮肉な結果でした。(後編に続く)。

校舎の図面