第13回 市立ツェツィーリエンギムナージウムとの
姉妹校提携誓約書

姉妹校提携誓約書

 1971年4月開校以来の10年間は、学校内外に対する運営では欧米全日校の嚆矢(こうし)故(ゆえ)に前例がないため暗中模索、試行錯誤を経ながら徐々に本校独自のスタイルを作り上げて行く時期でした。その中で国際親善への取り組みは海外校の当然の課題として開校当初から当り前のように行われていました。
 その一つの結果が本校から歩いて10分以内の地にある市立ツェツィーリエンギムナージウムとの姉妹校提携でした。これは木庭(こば)清八第4代校長(1979.4.〜1982.3.)がイニシャティヴを取り、Ceci校に通う日本人生徒の保護者の仲介援助を得ながらアンナ=クリスタ・マイヤー=ユストス校長と協力して両校の将来を考えて作り上げたもので、1981年11月26日にチェツィ校の講堂に出席した両校上級生の生徒達を前にして姉妹校提携誓約が行われたのでした。誓約式後の第2部では両校生徒出演による祝典音楽会が行われました。提携の目的と意義はここに写真で載せた「誓約書」にある通りです。この式典で述べられた両校長と伊藤安太郎第6代理事長(三菱商事)の御挨拶は夫々味わい深く、また興味深いものですが紙数の関係から掲載できないのが残念です。
 ツェツィ校との係わりは実は本校開校の年から始まっていました。1971年4月に小5以上の授業が始まったのは教会付属の青少年用建物(カニージウスハウス)なので理科室などありません。そこで歩いて14〜5分の地にあるチェツィ校 (当時は古典語系女子ギムナージウムでした) の生物室、化学室、物理室、夫々の準備室を市の学務局を通して週3日、1971年11月から73年3月までの1年4ヶ月使わせて戴いたのでした。尚同校は1973年の夏休み後の新学期から(第1学年である)5年生に男子生徒を受け入れこの時から共学開始、また新外国語系ギムナージウムになりました。また1974年からモンテッソーリクラスが導入され当時本校教職員は折に触れて見学に行ったものです。
 また1974年3月に第3回生として本校を卒業し、74年4月から75年2月までの10ヶ月間、チェツィ校に通った三宅真奈美さん(本校第2回派遣教員三宅正勝先生のご長女)が上梓(じょうし)した『ドイツの教室ひとりぼっち』(かんき書房)は反響が大変大きく、当時日本では幾つかの放送局や新聞、英字新聞でも報道されてこのギムナージウムの紹介に一役買いました。
 その他姉妹校提携前の大きな共同作業としては1979年11月30日に本校音楽室で行われた、本校、チェツィ校、それに市内カイザースヴェアトにある(当時の)アメリカンスクールの中学生達による3校合同の日本史の授業があります。これの実施のために何ヶ月も前から3校の先生方が先ずお互いの学校の制度や学校生活の違いを認識し理解する事から始まり(例えば職員室という言葉一つとっても三校の先生方のイメージが夫々違うのです)、時間をかけてテクスト作り、翻訳、OHP写真作成の準備などの苦労を重ねて大きな成功を収めた事が記憶に残ります。
 両校の交流は実は姉妹校提携の前も後も組織的でも計画的でも系統的でもなく、年に2〜3回教員がスポーツ親善試合などをする程度でした。ただこの間チェツィ校の方では1985年から88年まで当地で総領事を勤めていらした黒川剛(つよし)大使の御尽力もあって同校内に日本語課外クラスが設けられ、リーベルト小泉清子先生の指導の下で日本や日本語、日本人生徒への関心が高められる下地が作られていました。1990年代になって両校の教員だけでなく生徒同士の交流も少しずつ増えてきましたが、(1995年10月末の本校創立25周年記念式典と記念演奏会はチェツィ校の大講堂を借用しました。)上記のように組織的、計画的、系統/継続的な交流に向かって積極的に動き始めたのは1996年5月に派遣された森山隆介第2代国際交流ディレクターの時からでした。爾来ベアトリース・ベルクマン教務部長を窓口として本校の国際交流担当者との定期的な話し合いが持たれるようになり、現在は主に中学生段階の交流授業などが行われており、姉妹校提携誓約後20年にして漸く本来の目的や意義に適った交流になるよう努めています。(2005年1月記)


木庭清八第4代校長とアンナ=クリスタ・マイヤー=ユストスCeci校校長

ツェツィーリエンギムナージウム校