第4回 1973年竣工新校舎

「海外子女教育」(1974年11月1日発行 晩秋号)より
 本校の開校は1971年4月21日、小5〜中3まで教会付属建物の「カニージウスハウス」で43名で、事務室兼職員室は一般住居を賃借、翌72年5月から小1〜小4は「ドン・ボスコシューレ」を午後借用、と開校当初は3箇所に分かれての不便な形態で、72年4月に現在の校舎のある土地に杭打ちが始まった。収容人数はmax330名であった。
 「新校舎」(現在は小1〜小4などが入っていて「旧校舎」と呼ばれている) 完成は、当地在住邦人や日本サイドでの強い宿願であった。何しろ欧州、北米に於ける全日制日本人学校の自前校舎の第1号である。本校と時を同じくして発足したばかりの海外子女教育振興財団による邦人企業からの1億7千万円の寄付金取り纏めなど、多くの関係者の協力を得て1973年3月9日に落成式が行われた。総工費は当時2億円であった。
 当初政府からの援助(銀行借り入れに対する所謂シドニー方式による国庫補助)決定を待っていられない切羽詰った状況での見切り発車だったので、最初の校舎図面には屋内体育館すら存在しなかった。それを知った初年度派遣の5名の先生方は小さくても良いから体育館を、と理事会に嘆願した。尚上掲写真の右端にはまだ2階部は増築されていない。
 竣工間近の校舎に対してドイツ人の関係者から、体育館の広くて白い壁面に「デュッセルドルフ日本人学校」と堂々とした大きな学校名を付けたらよい、という提案が出され理事会でも了承された。こうして幾つかの字体が約2〜3週間ほどトライアルに壁面に掲げられて一番良いものを選ぼうとした。
 処がその措置は当時のギリシャやスペイン、ユーゴ、イタリア等日本人以外の外国人を刺激し、引いては本校を好意的に遇してくれた州政府や市当局に迷惑をかける事になる、という事でこのアイディアは結局ボツになった。『ライニシェポスト』に載った大きな校名の掲げられた写真はかくして「幻の表示」としてのみ残ったのである。

「Rheinische Post」(1973年1月24日発行)より