校長より
 本校は1971年4月21日、デュッセルドルフ市オーバーカッセル地区教会付属建物カニージウスハウスを仮校舎として開校した、欧州2番目の日本人学校です。
 1973年3月9日、現在の地に校舎を建設し移転してきました。児童・生徒数増加に伴い、中学部がランカー通りにあるドイツ人学校を借用し授業をした時期もありましたが、1993年5月25日、待望の新校舎が完成し、旧校舎と合わせて25教室、1000名の児童・生徒が学べる体制が整いました。今年(2019年)で創立49年を迎える学校です。また、週末には日本語補習校が授業を行っており、約210名の児童・生徒が学んでいる施設でもあります。
 
中田 朗弘 校長
 
子どもたちが学び育ち合う学校@

 デュッセルドルフ日本人学校勤務も2年目になりました。

 今年度から学校教育目標を「豊かな心をもち、国際感覚を身につけ、学び続ける子どもの育成」とし、授業の質をさらに高めることを目指して学校経営をしていく所存です。また、今年度から小学部の授業時間を50分として、2校時と3校時の間に15分間の中休みを取ることにしました。子どもたちから「もう授業終わりなの」と無意識のうちに声が出るような授業を増やしたいと考えています。

 そのための手立てとして、小学部4年生以上に可能な限り教科担任制を試みました。今年度は算数・数学科を専門にしている教員が4人いるので、小学部の4年生以上の算数は全てこの教員に担当してもらうことにしました。それに伴い4年2組の担任が4年生の社会科を2クラスとも担当します。5・6年生では5年2組6年1組の担任がそれぞれ5年生と6年生の国語科を2クラスとも担当します。また、算数・数学科では中学部の数学の教員が6年生の算数を1クラス、小学部の算数科の教員が中学2年生の数学を1クラス担当し、小学校の算数から中学校の数学へ移る際のギャップを減らすための研究も進めたいと考えています。学校説明会の折に詳しく説明いたしますが、授業時数の問題は計算上解決いたしました。これからは数より質で勝負しながら「授業を中心に据えた学校経営」を進めてまいります。昨年度同様皆様のご理解とご協力よろしくお願いいたします。

 子どもたちが学び育ち合う学校A

  このホームページでも、校長として目指す学校像「授業を中心に据えた学校経営」について具体的な思いをお伝えしようと考えました。

 「授業」といってもいろいろな解釈があります。私も時々使ってしまいますが、行事という言葉と対比した意味で使うことがあります。しかし、学校教育の中で行われている行事は授業での取組なしにできるものはほとんどありません。つまり、私が中心に据えたいと考えている「授業」とは学校で行われていることのほとんどのことを意味します。そういった意味での授業の具体的なイメージは、実は文部科学省が小学校では2020年度から中学校では2021年度から完全実施する「学習指導要領」の理念「主体的・対話的で深い学び」に則ったものでもあります。そこで、必ず必要になるものは学校経営をする上でのビジョンです。それが今回タイトルに示しました「子どもたちが学び育ち合う学校」です。さらに付け加えるならば「教師たちも教育の専門家として学び育ち合う学校」を目指したいと考えています。子どもたちには「ひとりぼっちにならない、ひとりぼっちを作らない」を合い言葉に「わからないから始まる学び合い」を授業の中でたくさん生み出しましょう、と伝えています。
 では、本校が目指している授業をもう少し具体的に説明いたします。今まで日本の学校で行われていた、多くの授業のイメージは、教室が「教師が教える空間」であったと思います。それを「子どもたちが学ぶ空間」にシフトしたいと考えています。どのような教師が望まれていたかという視点で言い換えますと、「説明が上手な先生」から「説明が上手な子どもを育てることが上手な先生」にシフトしたいということになります。つまり、教師がわかりやすい説明をしてわかりやすくきれいに黒板に書いたものを、子どもたちはノートに写すということを中心に行い、いわゆる授業を受けるという態度に徹してしまいます。このような一人の先生が大勢の児童生徒に向かって一方的に説明して伝えることが中心の授業から主体的という言葉が示すとおり子どもたち同士が関わり合いながらお互いを支え合い認め合って自ら課題を解決していく姿が多く見られる授業にシフトしたいのです。そのために教師は、どのような課題をどのような状況で与えると上記のような姿に繋がるかをお互いに授業を見合いながら研修する必要があります。その時間を少しでも多く生み出す環境を作り出すことが校長としての使命であると思っています。

 子どもたちが学び育ち合う学校B

  中学部3年生の修学旅行も終わり、運動会に向けての「結団式」も近づいてきました。こういう時期こそ先生の話を聞くことがほとんどだったり、黒板に書かれていることを写せばよいといった授業では、子どもたちの気持ちはふわふわしたり、授業に身が入らなかったりします。「主体的・対話的な学び」がたくさん生まれている授業ならそういった状態にはなりにくいと思います。
 さて、「学び」という言葉が最近よく使われるようになりました。以前は「勉強」という言葉が主流だったように思います。日本のテレビ番組で「勉強」という言葉についてこんなクイズがありました。「買い物でまけてもらいたいときに『勉強して』というのはなぜでしょう」といったものです。解答は『「勉強」という言葉の語源は「勉め強いること」であるから本来は気の進まないことを無理にするという意であった。江戸時代には商人が頑張って値段をまける意で使われていた。』でした。語源のイメージならば、授業中に「勉強」はしなくてよいのではないかと私は思ってしまいます。
 では「学び」とは、と問われたとき私は「新しいこと、未知なることとの出会いと対話である」と答えています。ここには「強いる」というイメージはありません。さらに「主体的な学び」となればなおさらです。主体的に新しいもの未知なるものに出会うためには脳を十分に働かせ、他の人の助けも借りながら協同的な取組が必要になります。私が抱く授業のイメージそのものです。以前はなぜ「勉強」が主流だったのでしょう。日本中が活気に満ち溢れていた「高度経済成長」という時代の真っただ中にあった時期は「産業主義社会」とも言われ、大工場のアセンブリライン(assembly line)つまり「生産目標」を定め、作業を段階的・直線的に系統化し、効率的な達成を追求してその結果をテストによって「品質管理」するといった考え方が社会の主流でした。学校教育の経営と組織と実践も基本的にはこの考え方が主流で、カリキュラムや授業を学年制と教科制によって組織し、教育目標を定めることによって教育プログラムを開発し、その授業と学習過程を効率的に組織し、その結果をテストで評価するといったものでした。ある意味こういった考え方の下では「勉強」といった考え方が相応しかったのだと思います。しかし現在はどうでしょう。時代は「産業主義社会」から「知識基盤社会」に完全に変遷しています。アセンブリラインのほとんどは機械によって賄われています。さらに、今ある仕事の何割かは将来なくなってしまうとも言われています。そんな時代を生き抜いていかなければならない子どもたちに対して旧態依然の授業をしていたら将来不幸になるのは子どもたちなのです。今の子どもたちに必要なのは「勉強」ではなく「主体的・対話的な学び」なのです。この社会の変化にいち早く気づき、警鐘を鳴らしていたのが学習院大学教授(東京大学大学院名誉教授)の佐藤学氏です。私は佐藤学教授の「学びの共同体」の理念に今から15年ほど前に出会いました。上述したことのほとんどが教授の書いた本の受売りです。自分なりの解釈でこの理念に基づいた授業を実践し、改良しながらいくつかの成功例にもたどり着きました。

子どもたちが学び育ち合う学校C

 運動会も無事終了し、落ち着いて授業に集中できる日々が続くのかと思いましたが、夏休みがもうそこまで来ていました。本校の子どもたちは本当に忙しい日々を過ごしているんだなとつくづく思います。5,6年生に至っては、すぐに宿泊学習や修学旅行が控えています。しかし、学校を経営する立場で考えると、その忙しさなどに流されて、授業から目を離すようなことがあってはならないと思います。どんな状況であれ、学校にとって授業は最優先されるべきものだと考えます。
 さて、その授業の中で具体的にどのような取組が必要なのかについて述べたいと思います。授業では、一人残らずの子どもの学びが保障されていなければなりません。「一人残らず」という言葉と「授業」を結びつけて考えると「分からない」と感じている子が一番大切にされなければならないのではないかと思います。そんな思いから出てきた言葉が「分からないから始まる学び合い」です。授業には必ず「課題」というものがあり、それを解決することが目的になっていることが多々あります。「子どもたちが学び育ち合う学校A」にも書きましたが、以前はこの「課題」を教師が教える形の授業がたくさん行われていました。子どもたちは、授業とは受けるものであると思い、先生の説明を聞くこと、黒板に書かれたことを写し取ることが授業でやるべきことであると思っていました。結果として説明が上手な先生が良い先生だと思われていたわけです。こんなエピソードも聞いたことがあります。『何かのメディアのインタビューで中学生の女の子に「どんな授業が好きですか?」と訊いたところ、「黒板を写す授業」と回答した。「なぜですか?」と聞きかえしたところ、「楽だから」という返事だった。』冷たい風が心の中を吹き抜けていった感じがしました。今、本校が目指している授業は、この少女が好きだといった授業とは正反対の授業です。先生の説明を聞いたり、黒板に書かれていることを写し取ったりする時間は50分の時間の中で長くても15分くらいでとどめてほしいと思っています。「分からないから始まる学び合い」を授業の中でたくさん発生させるためには、子どもたち同士が関わり合う時間をたくさん設定しなければなりません。それにはお互いの顔が見えなければ関わり合いは生まれません。それで本校は机の形をコの字にして友達の顔がいつも見えるようにしました。さらに、「関わり合いの基本は聴くことである」という考え方をもとに「聴き合う関係」を大切にするという方針を出しました。授業で行うべきことをキーワードで表すと「聴く」「つなぐ」「もどす」になります。これは教師サイドの言葉になりますので子どもたちの取組としては「聴く」「つながる」「振り返る」になるかと思います。これらの取組がたくさん見られる授業を創り出すために職員研修に力を入れています。


子どもたちが学び育ち合う学校D 

 早いものでもう1学期が終了しました。1学期には研修の一環として中学部2年生の数学の授業を各クラス5時間ずつ私が行いました。実際に授業を行ってみて感じたことは「生徒たちを満足させる授業は難しい」ということです。

 「聴く」「つなぐ」「もどす」が確実にできれば生徒たちの満足度はもう少し上がったのではないかと思います。「聞く」ではなく「聴く」そして「聴き合う」という状況を生み出すことがあまりできませんでした。全体に向かって質問等をすると、反応する生徒は決まった子になり、人数もあまり多くありません。しかし、机をコの字にしているので生徒同士での対話にはなりました。一人残らずの生徒が参加している授業に近づけたいという思いから、何をするのかを確認した上でグループ活動を取り入れました。「一次関数」という単元の授業をしたので関数をイメージさせるために「ブラックボックス」という「モノ」を用意しました。「モノ」があるときのグループ活動は有効であったと思います。生徒たちの聴き合う姿が多く見られました。次の時間はブラックボックスは使わず、イメージだけにしました。それでもグループ活動の中に「学び合い」が見られました。さらに、教えなくてもここで学習したい内容が生徒たちの声となって出てきました。ただ、その内容は先行学習(塾等での学習)で得た知識がほとんどでした。私はそのこと自体には問題はないと思っています。「なぜ」の一言で生徒たちに簡単に「もどす」ことができるからです。欲を言うと、この「なぜ」が生徒たちの声として出てほしかったのです。これが私の大好きな言葉「わからない」そのものなのです。この「わからない」には確実に「わかりたい」が潜んでいます。この状況がグループの中で発生すると「わからないから始まる学び合い」が発生します。今回の授業では「一次関数yax+baxの増加量分のyの増加量である」という意見が生徒から出ました。教師に教えてもらえたならば、「そういうものか」と思って覚えることは簡単だと思います。さらに、いろいろな場面で検証もでき、当然そのことが正しいことも確認できます
 今回私はブラックボックスを使って関数当てゲームを行いました。関数を一次関数に絞ると2枚のカードを入れると、上記のことを知っていた生徒は出題者の一次関数を当ててしまいます。そこにそのことをまだ学んでいない生徒から「なぜaxの増加量分のyの増加量なの」という声が発せられたとき、「これを説明するのは難しい」という声が先に教えてもらって知っていた生徒から漏れました。実は、このことを説明するという事柄が一次関数という単元で学習する内容のほとんどを占めているといってよいのです。
  理想的な展開として考えると、教師は「関数当てゲーム」という課題が発生しやすい状況を与えただけで、先行学習がある無いにかかわらず生徒たちが課題を作り、その解決に向けてグループでの学び合いをしながら深い理解につなげていく。これこそ「主体的・対話的で深い学び」であると私は思います。さらに「訊くこと」の大切さに子どもたちが気づくこと、つまり、「わからない」という言葉の大切さに気づくこと。そして、訊いたからにはそのことについて説明してくれる人の言うことはしっかり聴く。説明する側は、相手が傾聴してくれていれば、説明することにより自己有用感が生まれます。「聴く」「聴き合う関係」「つなぐ(子どもと子ども,子どもと教材等)」「もどす」がたくさん生まれる授業の条件は、「モノ(何らかの具体物)を授業に持ち込むこと」「何を言っても大丈夫といった雰囲気を教室に作ること」なのだと私は考えます。

子どもたちが学び育ち合う学校E

2学期がスタートし、10日が過ぎました。来週末には「子どもたちが学び育ち合う学校B」でも少し触れました、佐藤学教授に来ていただき研修会・講演会を行います。講演会には保護者の皆様も参加できるようにいたしました。ご都合のつく方はご参加ください。
 以前、「子どもたちが学び育ち合う学校A,C」で「わからないから始まる学び合い」という言葉を使いました。実は「わからないから始まる」という言葉には大きな意味があります。「学び合い」は「わからない」がスタートでなければ成立しません。日本でたくさんの授業を参観させていただいた中で、先生が「わかった人は、まだわからない人に教えてあげなさい。」と言っている場面がありました。このときの「わからない人」にはわかりたいという気持ちがあるとは限りません。また、今は自分で考えたいと思っているかもしれません。もしそうだったとすると、この状態は余計なお節介でしかないのです。私はこの状態を「教え合い」呼び、「学び合い」とは区別しています。わからない人が「ねぇ、これどうしてこうなるのかわからないんだけど」とか「これどうやってやったらいいの」などと訊いてきたときは「わかりたい」が必ずあります。でも、授業中なかなか「わからない」とは言いにくいものです。だから、教室には何でも言える雰囲気が必要なのです。その手助けになればと思い私はいろいろな場面で「校長先生の一番好きな言葉は『わからない』だよ」と言っています。実は、「わかりたい」に裏付けられた「わからない」はとても重要な言葉なのです。この状況での依存心はとてもプラスに働く感情だと思います。
 しかし、「教え合い」に慣れてしまった人に生まれる依存心はマイナスです。「教え合い」を行っている状況には、両者の間に互恵的関係(reciprocal relation)は存在しません。結果的に教師や友達の援助を待つ人になってしまいます。そして、その援助が薄れていくとやがて「恨む人」へと転じてしまいます。「恨む人」とは自分を見捨てた教師や友達を恨む人です。
 2学期の始業式で、中学部1年生の代表生徒が「グループでの学び合い」という言葉を使いました。私は、この瞬間とてもうれしく思いました。子どもたちからごく自然にこの言葉が出てきたからです。「わからない」が言いやすい雰囲気が生まれた教室で、「わからない」に応える仲間がいてもクラス全員で授業を進めているとなかなか「聴き合う関係」は生まれません。そこで有効なのがペア活動やグループ活動です。「わからない」と言った側も全体の前で説明されると、まだよくわからなくても「よくわからないんだけど」とは言いにくいものです。しかし、3〜4人のグループでの活動であれば、説明する側もリラックスして話せるし、聴いている側も途中で突っ込みを入れたり、まだよくわからなければ素直に「まだよくわからない」と言いやすくなります。これが「グループでの学び合い」の基本形です。小学校1,2年生では「ペア活動」がこれに当たります。グループ活動というと勘違いされやすいものに、以前日本の学校で流行した「班活動による話し合い」があります。これと「学び合い」は全く異なるものです。「話し合い」の殆どは、既にわかっていることを出し合いまとめる活動でした。新しいこととの出会いや未知なるものの発見とか対話が生まれることはあまりありませんでした。「わからないからは始まる学び合い」にはこれらがたくさん出現します。さらに、「わからないから始まる学び合い」で力が付くのは実は援助の気持ちをもって説明する人の方なのです。次回、このことについて触れたいと思います。

子どもたちが学び育ち合う学校F

9月6日の佐藤学教授による講演会には、たくさんの保護者の皆様に参加していただきありがとうございました。この日、佐藤教授には2校時より3時間にわたり本校の全学級の授業を観ていただきました。「たくさんの教室で学びが発生している授業が行われていた」とお褒めの言葉をいただきました。講演会のパワーポイントデータをいただき、編集いたしましたので、ご希望の方は、担任にお申し出ください。
 それでは、なぜ「わからないから始まる学び合い」で力が付くのは援助の気持ちをもって説明する子の方なのかについて触れたいと思います。先日講演をされた佐藤学教授が提唱する「学びの共同体理念」では、「わかる」には4段階のレベルがあるとされています。『@ わかって、できるレベル』『A わかっていることを説明できるレベル』『B わかっていることを教えることができるレベル』『C わかっていることで、わかっていない子の問いに対応し援助できるレベル』@が一番低いレベルで、Cが最高レベルです。つまり、一人で問題をたくさん解いても、@を繰り返しているだけで深い理解(学び)につながることは少なく、1題でもグループの中で「わからない」と言ってくれた子がいて、その子にわかるように説明することができたならば、BまたはCのレベルになるということです。例えば、算数・数学では同じような問題をたくさん解くよりも、1題の問題が解けた子が解けなくて困っている子に「ねぇこれどうやってやるの?」と訊かれ、その子にわかるように説明することは、その問題を正解に導く道筋を理解するだけでなく、その問題を解決するために必要ないろいろな事柄を持ち出す必要があり、それらの事柄とその問題のつながりを頭の中で整理する必要があります。それは、頭の中でこんがらがっている糸を解きほぐすことにもつながります。その問題が解けたということに止まらず、それに必要は様々な事柄の理解が深まったということになります。それは、今後その傾向の問題は自分の力で解く力を身につけたということでもあります。つまり、たくさんの問題を一人で解くよりも遙かに短い時間で深い理解に至るということです。そこに必ず必要になるのが、「わからないから教えて」と言ってくれる子です。何でも言える雰囲気が学級の中にあり、「わからないから教えて」が自然に言えたなら、当然その言葉に反応して説明してあげた子はわからないと言った子のためになっています。「わからない」と言った子は上で述べたように説明してくれた子のためになっているのです。このように「聴き(訊き)合う関係」が生まれ、この互恵的な関係を理解したならば、どの子も自己有用感を持つのは当たり前だと思いませんか。このような互恵的な関係に基づく「学び合い」が当たり前になった学級には、当然「いじめ」や「不登校」は出現しにくくなります。佐藤教授も日本国内のいわゆる荒れた学校にこの理念を持ち込み本質を理解した上で確実な取組をした結果、子どもたちの問題行動や逃避行動は激減したと講演の中でおっしゃっていました。「わからない」が自然に言える雰囲気が生まれ、授業中たくさんの「わからないから始まる学び合い」が発生すると「わからない」が「わかった」に変わります。その結果、学びに追いついていなかった子のレベルが高くなります。そうなると、「わからない」の内容がレベルアップし、説明の質も自ずと高くなります。この取組は、「学力向上」を目指しているわけではありませんが、結果として学力が上がっていきます。 5月の学校説明会でもお伝えいたしましたが、今年度の具体的な目標の一つは「聴き合う関係を築き、友達の手助けとなる説明力を育てる」です。上述したような状態に各学級が近づいていくよう研修を進めて参ります。